第五章 キュンとなる彼の笑顔に揺れる気持ち
「いらっしゃい!」
暖簾を潜ると、店主と思しき男性の威勢の良い掛け声で迎えられた。和風造りの居酒屋は内装もシックにまとめられ、いい意味で殺風景だった。
「どうも」
「おぉ、直樹。彼女連れか?」
会釈をする小池くんに目を向けると、割烹着姿の彼がイタズラにニヤけてみせる。
「違いますよー!」
彼は顔を赤くして「すいません、実はここ前にバイトしていた店なんです」と申し訳なさそうに言った。
個室に案内され、入ると畳の良い香りがして掘りごたつのようなテーブルに赤と白のクッションが並べられていた。
和室にクッションなんて普通は合わないけど丸いテーブルにおいてある小さなツリーのせいかなんだか妙に合っていて可愛かった。
「この部屋かわいいね」
「そうっすか?なんかアンバランスなんですよね、いつも」
「もしかしてあの人が?」
声を潜めてさっき小池君に話しかけた男前な板前さんを指して言った。
「そうなんです。実は」
彼はいたずらっぽく笑って板前さんを見た。
「なんだ直樹!早くオーダーしろ」
「はいはい、とりあえずビールでいいですか?」
「うん」
とりあえずのビールと前菜を注文し、私たちはクッションの隣に腰を下ろした。小池くんの言う「アンバランスな感じ」が妙に私を落ち着かせ、まるで自宅で寛いでいるかのような気持ちにさせる。
しばらくすると店主がビールを運び、それに少し遅れて別の従業員が前菜を持ってやってきた。
板前さんと目が合って微笑んだ。坊主頭であごに髭が生えているいかにも強面の板前さんが恥ずかしそうに笑って見せたので思わず笑ってしまった。
「板前さん男前なのに笑うと可愛いんだね」
「そうなんですよ。いつも笑ってればいいのに。それいうと怒るんですけどね」
「じゃあ言わないほうがいいっか」
「すいません」
そんな話をしながらビールで乾杯した。
「これもアンバランスなんですけど…味だけは保証します」
ビールにマグロのカルパッチョ、それと煮物が小鉢に入っている。テーブルの上を見ると確かに変わった組み合わせだが、口に入れると不思議と違和感がなかった。
「あっ本当。この煮物すごい美味しい!」
私が言うと、彼は優しく相槌をうった。自分が褒められたかのような嬉しそうな顔つきだ。
「ここ料理の味は格別なんです。嫌いなものとかありますか?」
「うーん、辛いものはちょっと苦手だけど他は特に。オススメ品お願いします」
「わかりました。そしたら俺適当に頼んでおきますね」
「うん」
彼は私の好みの味付けや嫌いな食べ物などを確認し、数種類の料理を注文した。そのどれもが美味しく、そして何よりも、小池くんといる時間がとても愉しく感じられた。はじめて一緒に食事をしたとは思えないくらいに。
まだ彼のことについて何も知らない私は、彼のことをもっと知りたくなっていた。
「そういえば小池くんっていくつなの?」
「あっ俺は二十四です」
「そっか、やっぱりね。年下だとは思っていたけど、二十四てコトは…えっ? ちょ、ちょっと待って! 来年、二十五歳?」
「そうです、矢口さんと同い年ですよ」
「ごめん、小池くんいつも敬語だし、なんかすごい丁寧だから年下だと思ってた」
「そんなことないですって。丁寧な仕草を心掛けているのは当然ですよ、矢口さんはクライアントなんですから」
そう言って、ニカッと笑う小池くんの屈託のない笑みは、やはりどう見ても年下のそれに見える。
「あっそっか、そうだよね」
何慌ててるんだろう私。
「それに俺って、ガキっぽいんでよく年下に見られます。嫌なんですけどね、本当は」
「小池くん可愛いからだよ…」
「えっ?」
ハッとした。また子供扱いをしてしまったような自分の言葉に慌てた私は、急いで口を噤んだ。
「ご、ごめん。また…」
「いえ、矢口さんにそう言ってもらえると嬉しいです、俺」
彼は照れ笑いを浮かべ、グラスに残ったビールを一気に飲み干した。私は仕切り直すように一拍置き、少し大きめな声で切り出した。
「じゃあやめにしない?」
「何をですか?」
「それよ、それ。敬語。せっかく同い年なんだし、ここでは敬語、やめにしよ」
「はい…じゃなくて、えっと。うん、分かった」
慣れるかな、と、小池くんは頭を掻きながら嬉しそうに呟いていた。
仕事のことや友達のこと、学生時代の話題で盛り上がると、私たちは時間を忘れて喋り続けていた。
同い年であることが、そしてそれを私が知ったことが、話題の幅をさらに広げてくれた。好きだったドラマや音楽にも共通点を見つけ、久しぶりに再会した同級生と一緒に呑んでいるような気分になれた。
彼の経験で一番に驚いたことは、学生時代に二年間の留学で渡米をし、英語を流暢に話せるというものだった。私が最も苦手とする英語。それを使いこなせるということは、私にとって尊敬するに値した一面なのである。
私は驚嘆しながら、ふと、時計に目を向けた。
「あっ、もうこんな時間なんだ」
「ホントだ。もう十一時過ぎですね」
「楽しくて気付かなかった。そろそろ帰らなきゃ」
「そうですね。残念です」
「あっまた敬語。さっきまで普通に話せてたのに」
二人は目を合わせて笑った。
「あはは。ついつい、あっ送ります。目黒ですよね、俺は今日おやっさんとオールナイトなんで」
彼はそういって板前さんを指した。
「仲良いんだね。いいよ、寒いし」
「じゃあ駅まで送らせてください」
「ありがとう、じゃあ駅までお願いする」
店を出ると冷たい風が二人の頬を刺した。酔いが一瞬にして醒めていく。
「寒いね」
「本当、夜が深くなるほど冷え込んできますからね」
街を照らしていたイルミネーションの明かりは少しずつ身を潜め、ようやく身の置き場を戻した月明かりが顔を覗かせている。さっきまでの賑わいが嘘のように。
冬の夜が持つ静けさが私たちの別れを惜しみ、二人の会話を緊張させた。
「あっ矢口さん」
思い出したように口を開く小池くんの目は、まっすぐに前を向いていた。
「う、うん?」
「似合ってますよ、その髪型。すごく可愛い」
いつから言おうと思っていたのだろう。彼の立ち居振る舞いからして、そういう気の利いたことを、思ったらすぐに口にできるとは思えない。
「ありがとう。楽しくて髪を切ったことも忘れてた」
本当に、今日一日していたことを全て忘れてしまうくらい楽しかった。
「あと…」
「ん?」
「なんでもないです。本当髪型似合ってる」
彼の優しい視線を感じた。目を合わせたらドキドキが止まらなくなったのですぐに逸らせた。
「この辺でいいよ。今日はありがとう」
「こちらこそ楽しかったです」
「じゃあまたね」
「気をつけて」
駅の前で小池くんと別れた私は、販売機で切符を買い、改札を抜ける。と、その時。走って戻ってきた小池くんは私を呼び止め、大きな声で叫んだ。
「矢口さん!あの、今って彼氏いますか?」
と顔を赤くして聞いてきた。
「いないよ」
私はすぐに答えた。
「そっか、よかった。あとでメールしますね」
彼は安心したような顔をしてそういった。
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
私はとてもいい気分で、最終電車に乗り込んだ。