第九章 イヴの奇跡
『留守番電話サービスに接続いたします』
無機質な女性の声が、受話器の奥で響いている。これでもう、彼女の声を聞くのは三度目だ。家に着くなり私は、直樹に電話をしていた。靴も脱がず、カバンも手に持ったまま。
どうしても直樹の声が聞きたかった私は、ほとんど無意識のまま、続けて三度もかけてしまった。
「そっか、そうよね」
彼が忙しくて電話に出られないことくらい分かっている。しかし今の私には、避けられているのかもしれない、そんなくだらない不安だけが襲ってきた。
ようやく靴を脱ぎ、着替えを済ませた私はベッドに横たわった。
もう、何も考えないでおこう。考えたって落ち込んでいくばかりだ。
そう思っていた矢先、私の携帯にメールが届けられた。
『今日はありがとう。本当に、ごめんね。 中川』
枯れたとばかり思っていた涙が、再び波のように押し寄せてくる。堪らず携帯を叩きつけ、私は服を脱いだ。浴室へと向かい、シャワーの蛇口を目一杯に開く。
「なんで、なんでよ! どうして『ありがとう』なんて…『ごめんね』なんて言えるのよ!」
冷たい水を噴き出すシャワーの音に紛らわせ、私はお腹の底から叫んだ。ごめんねも、ありがとうも、今の私には残酷すぎる言葉だ。そんなことを言って欲しくて彼女の名刺を、約束を彼に渡したんじゃないのに…。
悲しさとイライラでどうしようもない気持ちになった。なぜこんな思いをしなくてはいけないのだろう。私はその場に崩れ落ち、何度も「なんで」を叫び続けていた。
冷たい水が、私の興奮を冷ましてくれるまで、ずっと。
このメールは彼への気持ちを諦めなければいけないというメッセージであった。
シャワーから出て鏡を見ると泣きすぎたせいで目が腫れていた。
「こんなに泣いたっけ…」
瞼が重くなって目を閉じた。瞼に触れると熱く火照ってじんじんしていた。
中川さんと初めて交わしたときの挨拶、おしゃれなネクタイ、笑ったときにくしゃっとなる優しい目、いつも私を心地よく酔わせていたバニラのような甘い匂い。
そして食事を共にした幸せな時間。それは走馬灯のように途切れることなく頭の中を埋め尽くした。
中川さんのために買った白いワンピースも無駄になった。髪の色、クリスマスっぽい色にして下さい、なんて言わなきゃよかった。いつも舞い上がりすぎなのよ…。いつもこうやって惨めな思いをする。今回こそは…なんて考えてみれば毎回同じセリフ。自分の今までを振り返って益々辛くなった。何より、必死になって夢を見ていた自分がバカみたいで笑えてきた。
鏡に映る自分に笑いかけた。上手に笑えなかった。
明日は最悪な週末になりそうだ。
携帯の音で目が覚めた。急いで携帯を開くと知らない番号からだった。
もしかして、と思ってしまった自分に深くヘコみ、目覚めの悪い朝になってしまった。時計を見ると昼の一時を回っていた。
寝すぎてしまったせいで体がダルく重い感じだった。それでも、昨晩たくさん泣いたせいか頭はすっきりしていた。
テレビをつけ、ソファーの上で伸びをしながら今日は着替えなくてもいい日にしようと決めた。
昼のドラマやワイドショーはクリスマスの話で持ちきりだった。ドラマを見ると悲しくなりそうだったので仕方なくワイドショーにした。
お腹が空いたので、冷蔵庫にあったプリンと昨日買っておいたパンと粉スープとをソファーに運び込み、静かにテレビに目を遣った。
こんなとき、犬でも飼っていれば淋しさが紛れてたかもしれないのになぁ。いや、そんなの犬も迷惑か。
昼のワイドショーとは不思議なものでただ見ているだけでものすごい勢いで時間が過ぎていく。
気付くと時計の針は夕方の五時を指そうとしていた。
麻紀にメールをしようとして携帯を開いた。すると、ちょうど麻紀から電話が来た。
『もしもし純子、大丈夫?』
『あれ?私なんか言ったっけ?』
『昨日夜中にメールきてたけど』
何言ってんのよ。と麻紀がびっくりして言う。
『マジで!無意識だった、ごめん。文章おかしかったでしょ?』
昨日の夜中無意識にメールをしていたようだった。昨夜はとことん落ちていたから覚えていないのも仕方ない。
『あはは。かなりドライなメールだったからびっくりしたくらい。こんなにうまく嫌な予感が当たっちゃうなんてね。でもさ、そういう男だったってことじゃない、もし純子が付き合えたとしても忘れられてない女がいるって事は自分だけを見てくれてないってことと同じなんだから』
私の声が想像していたほどには沈んでいなかったことに安心したのか、麻紀は豪快に笑っていた。その笑い声が、私の傷をそっと癒してくれる。
『そうだよね。なんかもうクリスマスまでに、とかそういうのやめるわ。バカみたいだよ』
『そんなことないよ、あんたにはまだいい男が現れてないだけ。ていうかクリスマスはまだ始まってないしね』
優しさを帯びた声で麻紀は続けた。
『今日暇でしょ?うちでやるパーティー純子も来なよ。中川さんのことがあったから誘ってなかっただけで本当は来て欲しかったのよ』
『でも…』
『ずっと家にいたら忘れたいものも忘れられないって!ねっ。』
『うぅん、そうだよね』
私は鏡に映し出された今の自分の顔を見て、やる気ないなぁ、コイツ。と心の中で呟いた。
『八時くらいから始めるみたいだからその前にはよろしくね』
麻紀は明るい声でそう言い、『あっ、こないだ買ったっていってたワンピース、着て来てね』と付け足した。
『うん、いろいろありがとう。じゃあ後でね』
麻紀のくれた喝に心から感謝をし、私は電話を切り、支度を始めた。
すでにワイドショーは終わっていて夕方のニュースが始まろうとしていた。
よし、今日はいっぱい飲んで楽しもう。
ノッチの友達が集まるパーティは毎年開かれていたが行くのは初めてだった。そういえばかっこいい人もいっぱい来るとかいってたなぁ。
そんなことを考えながらソファーから立ち上がり、ワンピースに着替えようとしたとき、ヒヤッとした。
「まさか…」
ノッチの友達…まさか直樹はいないよね。もし好きな子と来てたらどうしよう…。あんなに電話もしてしまったし。
直樹のことを考えると少し行くのが気まずくなった。
いや、もう嫌な予想をするのはやめよう。
考え出すと止まらなくなりそうだったので急いでワンピースに着替え、
アクセサリーを探した。
シルバーよりもピンクゴールドの方が合うかな。私はピンクゴールドのハート型ネックレスに、純白パールのピアスを付けた。
改めて鏡の前に立つと気持ちが明るくなった気がした。買ってよかったと思えた。アイシャドーはパールピンクとシルバーホワイトでキラキラに仕上げ、髪型は飾りすぎず、軽く巻くだけにした。
そんなことをしながら時計を見ると六時を過ぎていた。もうこんな時間か。
『七時には出られるよ』
麻紀にメールを入れて、携帯をバックの中にしまった。
仕上げのマスカラを塗ろうと化粧台に座ると、携帯が鳴った。麻紀からの返事だと思ってマスカラを手に持ったまま携帯を無造作に開いた。
画面を見た瞬間、マスカラが手から落ちてドキリと心臓が大きく波打った。直樹からの電話だった。
『も、もしもし』
急いで出たので声が裏返った。
『純子ちゃん?帰ってきたよ』
直樹の優しい声が胸をキューっと締め付けた。
『おかえり』
『電話くれてたみたいだね。出られなくてごめん、ずっとホテルに携帯置いたままにしててさ。朝知らない番号から電話きてたでしょ?あれ俺なんだ』
『えっ、そうだったの!』
目覚めの悪い朝になってしまった原因の電話番号を思い出した。
『うん、我慢できなくて会社の人に携帯借りて電話しちゃった』
直樹のニカッと笑う顔が脳裏に浮かんだ。我慢できなくて…の意味が分からなかった。
『え?』
『まだわかんない?』
直樹の声がどこか男らしくなり、真面目な表情が覗えた。
『何?今日はずっと前から好きだった子に告白するんでしょ、その子に電話すればいいじゃない』
この間のひどく落ち込んだ直樹との電話を思い出して、なによっ。という気持ちになった。
『うん、告白するよ。その子が予定あるの知っててもどんな形でも』
『じゃあ、なん…』
『好きだよ』