第八章 偶然が引き起こした彼の選択
目が覚めると夜の十一時を過ぎていた。
会社が終わって足早に帰り、そのまま寝てしまっていたのだ。
化粧も落とさず服もそのままだった。スカートがクシャクシャになっていたのに気付き、起き上がって服を脱いだ。
そして、下着のまま冷蔵庫に冷たいミネラルウォーターを取りにいった。のどが異常に渇いていた。
「おいしい」
冷たい水が体の中の悩みを流してくれるように感じた。
少しすっきりした気分になり、テレビをつけようとリモコンに手をかけたとき携帯が鳴った。
「もしもし」
「もしもし、直樹です」
「は、はい」
びっくりして携帯を持ち替えた。
「夜遅くにごめん。今大丈夫だった?」
「うん。どうしたの?」
「いや、ちょっと話したくて。電話するの初めてだね」
緊張が声に伝わっていた。
「そうだね。びっくりした」
沈黙が流れる。初めての電話というのは必ず沈黙があるものだ。
「あのさ、純子ちゃんって好きな人いるの?」
唐突な質問に戸惑った。私は中川さんという好きな人がいる。今まで直樹に話すのはなんだか気が引けたけど、彼もずっと前から好きな人がいるとはっきり言っていた。何かを期待していた彼への気持ちが恥ずかしくなったばっかりだ。堂々と言ってやる。
「いるよ」
「そっか、会社の人?」
「そう、会社の上司なの」
わざと淡々と話した。自分にはいい関係の上司がいると。
「そうなんだ。告白はした?」
直樹も妙に落ち着いた口調になった。
「うん、イブに会う予定だからそのときにって思ってるよ」
「偶然だね、俺もクリスマスに告白するんだ」
少しの沈黙の後、彼は元気よくそういった。
少し落ち込んだ。私は直樹のことが本当に気になっていたのかもしれないと今さら気付いた。中川さんという大好きな人がいる中で、直樹という存在は中川さんに負けないくらい大きくなっていたことを今さらになってヒシヒシと感じた。目をつぶり、この思いを伝えようか迷った。
しかし黙っていた私に彼はこういった。
「お互い頑張らなきゃね、応援するよ」
不意に頬を叩かれたような気持ちだった。あの日、二人で笑い合った夜はなんだったの?淋しさが急に襲って来て、涙が込み上げてきた。
「うん、私も応援するね。じゃあ」
私は小さく返事をして電話を切った。電話をベッドの上に放り投げた。
ベッドに横たわると涙がツーっと頬を伝った。
すると、すぐにメールがきた。
『夜遅くにごめん。話せてよかった。
俺、明日から名古屋の会社に挨拶しにいってきます。クリスマスには帰ってくるんだけど。純子ちゃん頑張れ!』
いつもの可愛いはずの顔文字がすごく切なくて悲しかった。
私は一気に二人からフラれたような、そんな気分になっていた。
「あの、すいません」
夕方のレジ処理をしていたときだった。黒いパンツスーツを着た綺麗な女が急いだ様子で話しかけてきた。
「いらっしゃいませ」
「あの、中川…中川晃司は、こちらにおりますか?」
名前を聞いた瞬間、息を飲んだ。嫌な予感がした。
「あいにく中川は出張で新潟に行っておりますが」
なるべく手短に答え、彼女の様子を伺った。
「そうですか」
女は肩を落としてそう言い、バックの中から一枚の紙と名刺を取り出し、私に差し出した。
「これ渡しておいてもらえますか?」
私はそれを手に取り、すぐに名刺を見た。嫌な予感は外れることもなく『金村愛子』とはっきりと書いてあった。
「すいませんが、お願いします」
女はそういって頭を下げ、後ろを向き、足早に歩いていった。キツイ香水の匂いだけが強く残った。
しばらく放心状態で名刺と一枚の紙を見つめた。
なぜこんな偶然が起きてしまうのだろう。必然とはこういうことなのだろうか。あのとき、かかってきていた電話で日本に来ることを伝えたかったに違いない。
たまたまこのレジにいた私があのとき、中川さんの腕に寄り添っていた女で、中川さんのことを愛してるとは思ってもみないだろう。
アドレスに入っている『ai』は愛子の『ai』。『kn』は金村の『kn』。
ぴったり当てはまった。イライラするほどに。
そして私は一枚の紙を開いた。開いてしまった…。
『晃司へ 二十日、日本に帰ってきました。仕事がやっとまとまったの。しばらくはこっちにいるつもりです。離れてみて思ったの。やっぱりあなたしかいないわ、クリスマスいつもの場所で待ってます。 愛子』
見てもいいことはないことはわかっていた。出来ることなら破り捨てたい。この手紙を渡さなければ中川さんはこの事実を知ることなく私とイブを過ごすはずだ。
イブの約束はもともと私の方が先だったし…。
なんて、考えれば考えるほど悲しくなった。悲しさと同時に虚しさが襲ってきた。
一年もの間、何度も中川さんとの夢を見て、会社で会うたび嬉しくって心が躍り特別な存在だった。
中川さんに恋したあの誕生日の日、いつも私を元気付けてくれた大好きな笑顔、甘いバニラの匂い。
そして…彼の腕に支えられながら見たあの夜の一瞬の夢。
やっと夢が叶いそうだった。
大事に育ててきたこの気持ちを一瞬で、たまたま会った、絶対勝つことのできない女に壊された。
ほらまた、私はいつもそうだ。
もしかして、なんて期待した私がバカだっただけの話。
嫌なことはとことん続くのよ、そう思ったら少し笑えた。
明日は中川さんが帰ってくる。
『おかえりなさい。昼休み会議室Aで待ってます』
『ただいま。新潟は寒かったよ。昼休み会えるの楽しみにしてる』
メールの返事はすぐに返ってきた。
本当だったら帰ってきたことが嬉しくて、明日の予定とか二人で話し合って楽しい昼休みになるはずだったのに。
溜め息がもれる。
中川さんはこれを渡してどんな顔をするのだろう。
私がどんな気持ちでこのメールを送ったかなんてわかるはずないよね、メールを打ちながら指が少し震えて中川さんに会うのが怖くなった。
「矢口さん、これお昼までに頼むわね」
主任が会議に持っていく資料の制作を机上に置いた。ちらっ視線を上げると上目遣いで腕を組んでいた。
忙しくてイライラしてるのよ、と訴えていた。私はなるべく刺激しないように丁寧な返事をした。
「はい。昼までには必ず仕上げます」
黒いスーツを着ている主任の顔があの女と被ってすぐに目を逸らした。
あのキツイ香水の匂いがしなかったことが救いだった。
資料は五十人分もあった。新作の下着についてのものだったので目を通しながら資料をまとめた。
春に合うパステルカラーのものがとても多かった。
クリスマスが終わればお正月が来て、年が明けたと思ったらバレンタイン。そしてすぐに三月。
この時期が来ると一年って早いな。と必ず思う。
春に失恋するより冬に失恋した方が立ち直れそうな気がするのはなぜだろう。
そんなことを思いながら時計を見るとあと十分で昼休みの時間だった。
急に胸がドキドキしてきた。もう後戻りはできない。
私は小さく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
ガチャ。
ドアを開けると会議に合わせ机が整然と並べられたその空間は、しんと静まり返っていた。扉を後ろ手に閉め、部屋の中央付近まで足を寄せる。
なんとなく胸を撫で下ろしていたのも束の間、背後で扉の開く気配を感じた私はビクリと驚き、身構えて後ろを振り返った。
「お待たせ。ごめんね、少し仕事が延びちゃって…待たせちゃったかな」
走って向かってきてくれたのか、中川さんの息は少し乱れていた。
「いえ、私もさっき来たところなんで」
「そっか、よかった」
そう言いながらドアを閉めてこっちへ向かってくる。だんだん甘い匂いが鼻をかすめ、私が忘れようとしていた感情を呼び覚ましていく。
目の前に来た彼を見て、やっぱり好きだ、と思った。
「あ、あの」
うまく言葉が出てこなかった。
「ん?」
窓の光が彼の顔を照らしていて笑顔が眩しかった。手に汗をかいていることに気付き、無理やり言葉を出した。
「あの、昨日…」
彼の視線が私の緊張と熱をどんどん上げた。
「昨日、愛子さんっていう人が来ました」
緊張しすぎてもうどうでもよくなり勢いに任せてメモと名刺を渡した。
「え?」
彼はそれを受け取り、中を見るなりびっくりした顔をした。
言葉が出ないという感じだったので私が先に口を開いた。もうどうでもよかった。
「元カノってこの人ですよね、凄く綺麗な人ですね。びっくりしちゃった、私にこんな大事なもの渡すなんて」
私は首をすくめて笑った。
「矢口さん…」
彼は真面目でいてどこか情けない顔をして私を見た。
「いいんです、明日、行ってください。中川さんも愛子さんのことまだ好きなんでしょう」
目頭が熱くなっている自分を必死に抑え、精一杯の言葉を並べた。もちろん、行かないで。なんて言えるほどの自信や勇気は今の私に持ち合わせているはずはなかった。何より、そんなことを言ってしまったら自分がもっと惨めになるということを誰より自分がよく分かっていた。
彼は困ったような顔をして視線を落とし、ゆっくり頷いた。
失恋した瞬間だった。
あんなに頼りなくて情けない顔は見たくなかった。私の愛していた中川さんの姿はもうそこにはいなかった。
どうしようもない気持ちになり、今にも溢れ出しそうな涙をこらえて自分から別れを告げた。
「じゃあ、失礼します。いろいろありがとうございました。がんばってくださいね、お幸せに」
会議室を出た。『お幸せに』だなんて少しも思ってない、なんて皮肉っぽい言葉なのだろうか。いや、これぐらいの嫌味はかわいいもんだ。脳裏に黒いスーツを美しく着こなした女の姿が浮かんだ。同時にあのキツイ香水の匂いを思い出し、吐き気がした。私は昔からあの匂い大嫌いだった。あの女がこの世で一番憎い、そう思うくらい罰は当たらないだろう。
ぽろぽろ涙が落ちるとはこういうことかと思うほどに涙が止まらなかった。分かってはいたがやっぱり辛かった。
これで終わった。恋も夢も努力も。
どんなに自分が愛していたとしても相手には関係のないこと。一年越しで想っていたのに、なんてことはどうでもいい。終わりは一瞬なのだ。それが恋であり、恋愛である。
こんなに愛しているのになんで答えてくれないの?そんな疑問符は、無駄にすぎない。悲観的になって相手を責めてもいいことがないことぐらい経験済みだ。そんなこと言えるはずもなかった。
「好き」ということさえ伝えられなかったのだから。
屋上に上がった。空は悪気もなく青く澄んでいた。