第七章 イヴの憂鬱
ステーキを食べている手が止まる。視線がこっちに向けられた。
「クリスマス?今年は特に考えてないな」
「本当ですか!」
私の声は思わず上擦っていた。
「うん。矢口さんはどこか行くの?」
「いや、あの…もし、ご予定がなかったらその日…空けておいて頂けたりしますか?」
何を言ってるんだろう…緊張して声が完全に裏返った。
「いいよ。でも俺なんかでいいの?」
中川さんはそういって悪戯っぽく笑った。何かを勝ち取ったような気持ちになった。
「え!ほんとですか?!あ、ありがとうございます」
嬉しくて口元が緩みっぱなしだった。こんなにすんなり返事をしてくれるなんて思っていなかった。私は頬が熱くなっているのを気付かれないように下を向いた。
「じゃあ、横浜あたり行こうか」
中川さんがワインを飲みながらまるでこの約束がずっと前から決まってたみたいに言った。
横浜…今、横浜って言った?私は一瞬心臓が止まったような感覚になった。横浜は私の中で一番特別な理想の場所だったのだ。
まさか横浜を出してくるとは…頭の中に妄想が広がる。
山下公園で愛を確かめ合うカップルを思い出し、そこに自分を当てはめた。笑顔がこぼれた。
そして、胸がいっぱいになり叫びたい感情に駆られた。
目をつぶり、ワインを一気に飲み干した。
「大丈夫?顔赤いよ」
私の顔を覗き込み、中川さんは不安そうな表情を浮かべていた。
「すいません、飲みすぎちゃいましたね。このワインおいしくって」
私の頭の中がこんなにも興奮しているとはさすがの彼も分からないだろう。ワインの酔いと興奮したのが手伝って体中が尋常じゃないくらい火照っていた。
「喜んでもらえてよかった。大丈夫、今日は送っていくから」
頭がぼんやりする。五杯も飲んでしまった。
「そんな、大丈夫です!」
そう言って立ち上がってはみたが、足元がフラフラして覚束ない。
「いやいや心配だから送らせてよ、ね」
「すいません。それじゃあ、お言葉に甘えて」
私はフラフラする足元に気をつけながら中川さんの腕を掴んでいた。彼は黙って私を支えてくれた。
中川さんの甘い香りを吸い込んでさらに頭がふわふわした。
体中が火照って気持ちよくなった。何もかもどうでもよくなるくらい気持ちのいい気分だった。
中川さんに肩を支えられながら店の外へ出ると、心地好く冷たい風が火照った身体を撫でていく。
タクシーを捕まえると、私たちは後部座席に腰を下ろした。
彼の肩にもたれかかり、車の振動に揺られていると睡魔が襲ってくる。時折、対向車のヘッドライトが私たちを照らし、その度に私は目を細めた。次第に目を開けている時間よりも、閉じている時間のほうが増えていく。
ゆっくりと流れる時間の中、私の呼吸は一定のリズムで刻み、小さな寝息を立てていた。
腕に寄りかかりながらタクシーに乗ってしばらくすると、中川さんの携帯が鳴った。
うっすら目を明けてみた。着信画面に『愛子』という名前が映し出されていた。
目を疑った。
中川さんはしばらく画面を見つめそっとポケットに携帯をしまった。
大好きな人の腕に寄りかかっている夢の時間。一瞬で醒めてしまった。
「中川さん」
思わず声が出た。
「ん、起きた?」
何もなかったかのように優しい口調だった。
「あの…」
言いかけて我に返った。この話をして今日一日の幸せな気持ちを崩すのはもったいないと思った。
本当は今すぐ聞いて確かめたかった。しかし聞くのが怖かった。
「いえ、なんでもないです。あっうちこの辺なので」
「そこ右にはいってください」
タクシーの運転手にそういった。
「本当に大丈夫?」
「はい、ありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったよ。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
家についてベッドの上に倒れこんだ。心臓がドクドク波打つ。今日はずいぶん飲んでしまった。目をつぶって今日を振り返った。
『ai』という女は『愛子』という名前に違いない。見てしまった、出るか迷って切ない顔をしていた彼の姿を。
まだ何も聞いていないし、私の思い込みかもしれない。だけど…。
悩めば悩むほど、不安が押し寄せてきた。せっかくクリスマスの約束を取り付けたというのに、私の夢がようやく叶ったというのに、素直に喜ぶことができない。
私は首を振ってベッドから起き上がった。
「私の思い込みだよ、きっと」
自分自身に言い聞かせるように、私は今日クリスマスの約束が無事に出来たのだ。と心の中で何度も繰り返した。
しかし、そう考えれば考えるほど不安がまた、押し寄せて来る。頭の中がモヤモヤしてすっきりしない。
だんだん頭が痛くなってきたので薬を飲んだ。
布団を深くかぶり固く目を閉じた。
こんなに気分が悪いのは久しぶりだった。悲しいとか苦しいとかそういうんじゃなくて、頭の先からつま先までダルイ感じが続いていた。
「おはようございます。あの、この前の資料なんですけど」
向かいの席の後輩だった。
「あっはいはい」
「すいません遅くなっちゃって。最近彼が毎日来ていて中々時間なかったんですよね」
照れ笑いを浮かべながら彼女は話した。いつもなら笑顔で流していたが今日は無性に腹が立った。
「そんなのどうでもいいからなるべく早く提出して」
そう言い放って席に着いた。後輩は不満げな顔をして席に戻った。
パソコンを開くと三通のメールが来ていた。部長の配信メール、店のお知らせ、そして中川さんだった。
二つのメールを無視して中川さんのメールを開いた。
『ディナー楽しかったよ。ありがとう。あれから大丈夫だったかな?実は今日から二十三日まで出張で新潟に行ってきます。仕事がんばってね』
読んでからしばらく放心状態になった。
なぜ携帯にメールを返してくれなかったのか。なぜ出張に行くことを教えてくれなかったのか。
わかっていることはただ一つ、彼が帰ってくる間の三日間私は悩み続けるということだった。
私は溜め息を吐き、机の上に突っ伏していた。
売り場に回された私は、ちゃんと笑えているのだろうか。そんな不安を抱えながら、私は金持ち風のおばさん客に人気商品を勧めていた。
「いらっしゃいませ。このブラジャー付け心地がよくてすごく人気ですよ」
笑えているか不安になった。
「あらそう?じゃあこれ三色いただこうかしら」
いかにもお金持ちそうなおばさんだった。荷物をいっぱい抱えていて幸せそうだった。
「ありがとうございます」
精一杯笑顔を作って接客をした。モヤモヤした気持ちは昨日にも増して渦巻いていた。
「お疲れさん」
お客さんを送り出したすぐあとに麻紀が来た。
「あっお疲れ、麻紀今日休みだと思った」
「そのはずだったんだけどね、人手が足りないとか言われてさ。来させられた。本当ムカつく」
「テンション低いのはそのせいか」
麻紀はイライラしながらタイムカードを押した。
「そういうあんたも元気ないけど」
「まぁね。やっぱり私ってうまくいかないのかな」
中川さんとのことを話そうか迷った。
「何があったのよ」
麻紀は何かを察したように言った。
「ううん、たいしたことないんだけど。実際に何も起きてないのにただ悩んでるだけ」
麻紀は少し黙ってこう言った。
「そう、ていうか純子の恋愛癖だよそれ」
そして、あえて何も聞かないでいてくれた。
恋愛癖か…。何かされたわけでもないのにウジウジ悩んでしまうのは自分の勝手な思い込み。そう言い聞かせれば聞かせるほど不安になっていくのが私だった。
レジで事務仕事をしていると麻紀が走ってきた。
「純子、小池くん来たよ」
嬉しそうな顔で、早く早く!と言った。
「えっ」
ドキッと心臓が波打った。
あれからずいぶんメールはしたが、会ってはいなかったのでなんだかものすごく久しぶりに会うかのようで緊張した。
「小池くん、こっちこっち」
麻紀が小さく手を振った。彼は軽く会釈しながらこっちに来た。
「どうも!いやぁ麻紀さんお久しぶりっスね」
「本当だね。元気だった?」
「はい!頑張ってますよ。あっ矢口さん」
後ろにいる私に気付いて直樹は照れ笑いを浮かべた。
「どういう関係なの?」
私は二人の親しげな会話に疑問を隠せなかった。麻紀はニヤッとしながら直樹を見た。
「実は小池くんってノッチの後輩なのよ」
「え!そうだったの?」
「ごめんごめん。別にわざと黙ってたわけじゃないんだけどね」
麻紀が両手を合わせて謝るように言った。
「そうなんですよ。野村先輩にはかなりお世話になりました」
「高校の時、部活とバイトが一緒だったんだって。私も聞いたときはびっくりしちゃった」
「だから麻紀は小池くんのこと知ってたんだ」
「そういうこと。だから小池くんの恋愛話とかいろいろ聞いてるのよ」
麻紀は、ねっ。と言って直樹の肩を叩いた。
「やめてくださいよーっ」
直樹は顔を赤くして麻紀に言った。
「好きな子いるの?」
私は思わず聞いてしまった。彼はびっくりした顔をして下を向いた。
「はい。ずっと前から好きだった子が…」
「今年中には告白するんだってさ」
麻紀がニヤニヤしながらそう付け足した。直樹は、いても立ってもいられないというような感じで急いで麻紀にサインを頼んだ。
「小池くん、頑張りなよっ」
麻紀はサインをした伝票を渡し、彼の背中を押した。
「はい、頑張ります!」
直樹もまた、そう意気込んで急ぎ足で帰っていった。
「小池くんって、好きな子いたんだ」
直樹の後ろ姿を見つめながら麻紀にポツンと呟いた。
「うん、私も何回か聞いたことあるんだけどね。彼もあんたと一緒で一年越しくらい片思い」
「そっか」
ものすごく沈んだ気持ちになった。直樹と出会ったのは最近だし、私のもしかしたら、は、恥ずかしながら思い込みなだけで終わった。
中川さんの笑顔と直樹君からの可愛らしいメールが頭の中をグルグル回っていた。
私は何がしたいのだろう。思考回路がとても低下しているように感じた。もう今は何も考えたくない。