第二章 ただの一目惚れが本当の恋に変わった瞬間
社内メールを利用するのは久しぶりだった。たまに麻紀がくだらないメールを送りつけてくる以外、滅多にプライベートの内容では使用しない。というか普通はみんなそうである。これを利用して仲を深めようなんて麻紀以外の誰が提案するだろう。麻紀の突発的な意見に不安を抱きながらも思いの外ウキウキする気持ちでいっぱいの自分がいるのは確かだった。
中川さんの初メールの内容はこうだった。
「メールありがとう。びっくりしたよ!よろしくね」
最後についていた笑顔の顔文字が彼の優しい印象をさらに深めた。嬉しさのあまりトイレへ逃げ込みガッツポーズをしたほどであった。
そして、一週間が過ぎるころには、中川さんとの社内メールは意外に盛り上がりをみせていた。
一日に五回から十回のメールを往復させ、『好き』以外の言葉を遣って相手を褒めまくる。そして同時に、趣味やハマっている物や事柄を片端から聞き出した。
そんな遣り取りを数日間続け、矢口純子という存在のアピールを繰り返す。そして私は、見事に彼とランチをする約束をゲットしていた。
私は動き出すと、自分でも驚くほどに速い。ただ、踏み出すことに少しだけ時間がかかってしまうのだ。その理由は恐らく、心の中に深く刻まれ、植えつけられた恐怖心。
中川さんと出逢う少し前のこと、私は大好きだったカレにフラれていた。
わずか二ヶ月の恋。やはり誕生日の、少し前だった。
不意に、カレの言葉が頭の中に甦る。
「誕生日はもちろん仕事休むよ。いい店予約しとく。一緒に過ごそう」
「本当っ?楽しみにしてるね」
電話越しに聞こえる彼の声にドキドキしながら舞い上がっていた。
すごく楽しみだった。初めてそんなことを言ってくれる人と自分も出会えたんだと幸せな気持ちが体中を包み込んだ。
それなのに…
「優しすぎるよね、純子は。俺たち付き合うのが早過ぎたと思うんだ。俺、今忙しくてあんまり会ってあげられないしさ、別れよう」
さらっと言われた。そして彼の決意は堅かった。
忙しいってわかってたから逢えないの我慢してたのに、あんまりだ。
泣いて引き止めても無駄だった。腰に手を回したら手で押し返されたときのどうしようもないくらい悲しくて冷たい態度をされたことは今でも忘れない。
別れは…自分はこんなに簡単に済まされてしまう女なのかって悲しくなった。
今となってはあんな適当な男別れてよかったって思うけど。
そんな時、中川さんが現れたのだ。
誕生日当日の朝、出社するとデスクの上にメモ書きとチョコレートが置いてあった。
メモを開くと「誕生日おめでとう。これからも頑張ってね」というメッセージが書かれていた。
涙が出た。まだ親しくもない私にこんなことをしてくれるなんて、なんていい人なんだろうと胸が熱くなった。
一目惚れが本当の恋に変わった瞬間だった。
よしっ。私は心の中で密かな決意を固めた。
これまで繰り返してきた失敗は、もう繰り返したくない。すぐ手にいれようと焦って、空回りをして、それでいて…そんな繰り返しにピリオドを打ちたい。
この恋にはかなり気合いを入れている。
「行こうか、矢口さん」
「はいっ!」
晴れた日の午後。ついに中川さんとランチの日が訪れた。こんなに昼の時間が楽しみだったことは未だかつてないくらいに心が躍った。
二人は会社近くの美味しいと有名なイタリアンレストランに入った。
ここは人気だから昼に行くと大抵は並ぶか入れないかなので少し不安だったが彼は予約をしていてくれたみたいですぐに入れた。
こういうところはすごく彼らしいと思った。
「予約してくださったんですね」
「女の子を待たせるわけにはいかないからね」
中川さんはそういって私の大好きなくしゃりとした笑顔を見せた。胸が高鳴った。さすが紳士だ。
「ありがとうございます」
私はなるべく可愛い声で言った。
おすすめパスタにサラダ、季節のスープとデザート。一番人気のランチメニューであるAランチを二つ注文すると、私たちの前にお洒落なグラスに注がれた水が運ばれてきた。
「いつもメールの相手してくださってありがとうございます。本当は迷惑じゃないですか?」
水でのどを潤す中川さんに、恐る恐る訊ねてみる。心臓がドキドキと脈打つのが分かった。
「いやいや、こちらこそ楽しいメールをありがとう。営業先から戻ってきて矢口さんのメール見るとなんだか癒されるよ」
「そんな…」
「ごめん、ちょっと親父クサかったかな」
「全然そんなことないです。そんな風に言ってくださるなんて思ってもみなかったから」
照れ笑いを浮かべる彼が、なんだかとても愛おしい。中川さんの表情一つ一つが私の体温を上げていく。
会社の話や趣味の話をして、メールでの遣り取りでの延長線のような話で一通り盛り上がると、私はメインディッシュが運ばれてくる前に本題を切り出した。
「あの…中川さんって本当に彼女いないんですか?」
彼はサラダを食べていた手を止め、アイスコーヒーを口に含んだ。