第一章 不幸なクリスマスに終止符
肌を刺すような冷たい風が頬を麻痺させていく。やはり朝は苦手だ。冬は特に。
今年も残すところ一ヶ月となり、一年の幕を下ろそうとしていた。この時期になると街は一気に騒がしくなり、老若男女を問わず恋をしている男女の心が踊りだす。
なぜならクリスマスという大イベントがあるからだ。
気がつくとクリスマスは何かの締切日になっている。誰が決めたわけでもない恋する男女の勝手な決め事。そして私もその決め事をしている一人だ。
毎年様々な目標を立て、締切日までにそれを成就させられるようあの手この手を使った計画を実行する。それはまさに必死な日々の連続であり、気が気じゃない。
今年は三年前から続いている“不幸なクリスマス”に終止符を打つために何が何でも彼をゲットしてやるのだ!
とにかく気合いが入っている。
「おはよう、矢口さん」
優しい声が耳をかすめ、ドキッという心臓の音と共に後ろを向くと王子様が立っていた。
「おはようございます!」
すかさず元気に挨拶をした。
「今年も残りわずかだけど頑張ろうな」
「はい!よろしくお願いします」
ポンっ。と肩を叩かれ王子様の温かい手のぬくもりを感じ、急いで頭を下げた。頬が紅潮しているのがバレないように。
「純子おはよう、朝からラッキーじゃん」
王子様の後ろ姿に見惚れている私の背後からニヤニヤしながら麻紀が腕を引っ張った。
「毎朝会えたらいいのにな。今日も香水の匂いが甘かったー」
首すじの辺りからふわっと香る甘い匂いを思い出してヨダレが垂れそうになり、慌てて口元を押さえた。
この王子様の正体は営業部の中川晃司様、三十歳。今年の春、うちの部署に騒然と現れた私の憧れの王子様。背が高くて細身のスタイル…ちなみに身長は180センチもあるの。そして、清潔な短髪の黒髪が特徴。で、笑うと顔がくしゃっとなるアイドル顔負けの可愛いキュートな三十歳。
もちろん一目惚れで、出逢ったその日からぞっこん片思い中なのだ。
「最近デートどこいきました?」などと遠まわしに探りを入れ、彼に恋人がいないことは月に一度のペースで調査済みだ。
今年のクリスマスには約1年間の長い片思いに終わりを、と思っている。
そう、今年のクリスマスの目標は彼と素敵な聖夜を過ごす他はない。
「ところでさ、麻紀妊娠大丈夫だったの?」
「うん、セーフだった。本当危ないんだからアイツ」
商品の整理をしながら訊ねると、麻紀は頬を膨らませながら答えた。
「ノッチ、麻紀と結婚したいって言ってたもんな。だからやっぱり欲しいんじゃん?子供がさ」
「そうは言ってもさ、あいつ貯金もないんだよ?子供なんかできたら借金地獄だよ」
「貯金かぁ。私から言わせると羨ましい悩みだけどね」
「そう?あんたは現実味ないからねー。あっ、客来たよ」
そう言うと麻紀はちょっと太めのおばさんに駆け寄り、今期人気の真っ赤なレースの下着を紹介した。
それを眺めながらサイズ探し担当の私は「サイズないっつーの、もう」と心の中で叫んだ。
私たちの職場は下着を扱う百貨店の婦人服売り場だ。男性社員は事務や営業を、女性社員は販売と事務を交代制でやっている。
麻紀と私は同期入社ということもありとても仲がいい。麻紀はO型で適当な性格なので似合う似合わないなど関係なしにとりあえず客に流行のものを紹介する。また、A型で几帳面な私はいつも面倒なサイズ探しをやるハメになる。
この役割分担はもう随分長いことやっていてタバコを吸うには火が必要なように麻紀と私はセットでなければ役に立たない。
恋愛面でも私たちは対照的であった。麻紀は常に彼氏がいて、いつもたくさんの男とセックスをしている。今の彼氏というのが話題にも登場した、ノッチである。料理人の彼は優しくて面白く、センスがあるいい男。文句を言いながらも二人はラブラブ同棲中なのだ。
ノッチは麻紀のことが大好きだし、麻紀もなんだかんだ言いながら真面目に付き合っているのはノッチが初めてだった。このところほとんどノッチとのセックス話しかしないところが真剣に付き合ってる何よりもの証拠である。
麻紀は誰かとセックスをすると、アイツは早かったとか遅くて疲れたとか顔がいいのにアソコの小ささにビックリして濡れなかったとか指の使い方がうまくて最高だったとか必ず細かく説明をしてくる。人のセックス話なんて聞きたくないかもしれないけど私は案外に好きだった。
そんな麻紀もノッチとの付き合いはもうすぐ三年になる。そして最近では子供や結婚の話がちらほら出てきているのだ。私は麻紀のそんな話を聞くたび、羨ましくもあり好きだけではやっていけない男女の現実を目の当たりにする。
一方、私はというと好きな人は常にいるのだが誕生日やクリスマスのイベント前になると好意を持っている男たちが必ず去っていく。それだけではなく、キスまでして良い感じになった男の家に呼ばれ浮かれていたら実は彼女がいたとか一緒にベットに入りセックスを始めようとしたら、やっぱり元カノが忘れられないからごめん。なんて言われたり…はっきり言って、よく可哀相な結末を迎えるタイプの女だ。
ヤラれる前にわかってよかったじゃん。なんてよくフォローされるけど、それはそれでとても複雑な心境であることに気付いて欲しい。
だからとてもじゃないけど私は麻紀のように悠長にセックスを語れる女とは言えないのだ。でも今年は…中川さんと聖夜のベッドインなんてことをしてしまったら私も麻紀のようにセックスを語るつもり。
あーん。考えるだけでドキドキしてくる。
「…ません、すいませーん」
「…えっ、あ、はい!」
ハッとし、我に返った私の顔を若い男が顔を覗き込んでいた。
やばっ。妄想しすぎた。
「すいません、印刷屋の小池です」
彼は軽く会釈をし、私がオロオロしているのに気付いたのか自分の名前を名乗った。
「あっあぁ、はいはい。いつもお世話になっております」
「どうも。矢口さんにお会いするの久しぶりですね」
彼は言いながら伝票を差し出し、屈託のない笑顔を見せている。それにしても、あまり見かけない子なのに私の名前を覚えているなんてすごいな、と、妙に感心してしまった。
「ここに受け取りサインお願いします」
彼が指差した場所に名前を書き込むと、正方形で大きめの封筒が手渡された。恐らく中身は年末に向けて制作した新作下着のチラシである。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、またよろしくお願いします」
私が丁寧にお辞儀をすると、彼も同じように応えてくれた。そしてエレベーターの方へと戻っていき、再びこちらを見てから会釈をする。
自然と笑みが浮かんできた。
あれだけ丁寧にしてくれると、気持ちよくさえ思えてくる。小池くんね、覚えておこう。
「純子、このサイズあるかな?」
「マジ?」
さっきのお客さんが、赤い透け感のある下着をものすごく気に入ってしまったらしい。
思わず私は、下着とおばさんを交互に見比べてしまった。麻紀はすがるような眼差しを私に浴びせ、焦ったような口調で「お願い」と頼んできた。
さすがの麻紀も、あのおばさんにこの下着を買う勇気があるとは思わずに勧めていたのかもしれない。いや、麻紀のことだからそんなことは考えてないか。
私は慌てて裏の倉庫に駆け込み、在庫の中では一番大きい一枚を引っ掴むと店頭に戻った。入るか入らないか、微妙なところだ。
一か八か、とりあえず試着をしてもらうことにした。
「お客様こちらにどうぞ。ブラジャーをお外しになられましてご準備が整いましたらお申し付けください」
「分かりましたぁ」
カーテン越しに答える彼女には聞こえないよう、麻紀が小声で呟いた。
「純子よろしく」
麻紀が小声で言ってきた。
両手を顔の前で合わせる彼女に、「頑張ってみるけど、入らなかったら知らないからね」と、同じく小声で返す。
「お願いしまーす」
「はい、失礼します」
私はカーテンを潜り、試着室の中へと入っていった。
そこには目を疑いたくなるような、驚愕の光景が広がっている。Fカップの大きな胸と、それに負けじと背中周りに無駄についている肉のカタマリがブラに喧嘩を売っているように見えた。
私は改めて気合いを入れ直し、決闘に臨む決意を固めた。背中の肉をかき集め、どうにか収まるようブラに埋め込んだ。
「わぁ、とてもお似合いですよ」
鏡に映った肉のカタマリにお世辞を垂れる。
「ちょっとキツイ気もするけど、これくらいで大丈夫なのかしら? 」
「それぐらいがちょうどいいんですよ。じきにお肌と馴染んでまいりますので、苦しくないようでしたら大丈夫です。本当に、よくお似合いです」
「そうかしら。じゃぁ、これを上下セットで頂こうかしら」
「ありがとうございます」
試着室から抜け出し、麻紀にOKサインを出す。彼女はホッと胸を撫で下ろし、「ありがとう」と呟いた。
「ありがとうございました」
商品を手渡すと、私たちは深々と頭を下げた。四〇歳は裕に過ぎているであろうおばさんが、嬉しそうに真っ赤なブラとTバックのセットを抱えて帰っていく。彼女の嬉しそうなその表情は、これからその下着を見せるであろう彼を思い浮かべて表れたものに違いない。
クリスマスが楽しみなのは決して若い男女だけではないのだ。
「お疲れ!」
麻紀が傾けたビールのグラスに、私も自分のそれを重ねる。チンという心地好い音が、賑わう居酒屋の騒音にかき消された。
「お疲れ!今日は疲れたよ、ホント」
私が言いながら大袈裟に溜め息を吐いてみせると、麻紀はクスクスと微笑みながらビールを口に含んだ。
「なんか今日お客さん多かったもんねぇ、しかしあのおばさんTバックをセットにするとはね。どんな男と寝るんだろう」
麻紀はビール片手に枝豆を摘みながらニヤっと笑った。私は肉のカタマリを思い出し、身を乗り出して続けた。
「ねっ、私もさすがにそれ考えちゃったよ」
「やっぱり?私の予想だとアレは不倫か若い彼がいるね」
「あっ若い男っていうのはわかる」
「真っ赤な下着ってのは若い男が好きな色だからね。そうそう、中川さんとのデートには適さないわよ」
麻紀はニヤリと笑った。
「えっ?」
「やぁね。考えてるくせに」
「何よ」
「中川さんとのベットインよぉ」
麻紀はわざとセクシーに言って見せた。思いっきりそういうことを考えていた私は恥ずかしくなって手に持っていたビールを一気に飲み干した。
「ああっ、美味しい。もう一杯っ」
「ちょっと、あんた弱いんだから気をつけてよね。明日二日酔いとかナシよ」
「大丈夫だって」
麻紀の心配をよそにビールを注文した。
私は麻紀に比べて、百倍も酒が弱い。男の前では酔った真似をする麻紀だが、彼女が実際に酔った場面に出くわしたことは数えるくらいだ。
ビール十数杯にワイン、シャンパンや日本酒を一度に飲んでも、麻紀はケロリとしていた。そのため、麻紀が酔いたい気分のときに付き合うと、とても時間がかかる。
一方で、私はジョッキビールなら二杯でやられる。しかも、実のところビールが得意なわけではなく、すぐに学生が飲むようなカシスやフルーツ系のカクテルに切り替える。
「中川さんてさ、本当に今彼女いないのかな?」
二杯目のグラスを片手に麻紀に確認する。
「知らないけど人気はあるよね」
「だよねぇ」
「こないだも告白してフラれた女が三人もいたらしいよ」
「マジ?」
「確か…受付けの若い子と、営業にいるうちらと同年代くらいの子。あと事務の子だったかな」
私は三人の顔を思い浮かべた。そこに自分が加わるかもしれないと思うと、なんだかとても怖くなる。ビールを片手に枝豆を摘みながら、麻紀は話を続けた。
「でもあいつさ、人気あるくせに女の噂全然ないじゃん、相当好みにうるさいか実は奥さんいるとかね」
「奥さんはいないよ、たぶん」
彼の細い指先を思い出した。指輪はしてなかった。
「あら、知らないの?わかんないわよ、ああいう男ってモテたいが故に奥さんがいること隠してること多いんだから」
「情報好きのあんたに言われるとマジ萎える」
「あははっ、ヘコむなって」
麻紀は楽しそうに五杯目になるビールに手をつけた。
この女はこの手の話が大好物なのだ。さらに洞察力に優れているため、情報は誰よりも早いし、麻紀の『たぶん』や『きっと』はほぼ確実なのだ。
ちなみに中川さんがいる営業部には麻紀が食った男が多数存在し、今でもよく彼らと会話をしているので営業部の話は特に強い。
モデル体系のスタイルに短い髪が似合う美人顔の麻紀は男受けがよく、はっきりしている性格なので男友達も多いのだ。
「でもさぁ、そろそろ動いた方がいいんじゃないの?」
六杯目を注文しながら、麻紀が言った。
「わかってる、わかってるんだけど…どうしよう?」
私は真剣な面持ちで、麻紀の顔を覗き込んだ。
「まずは食事ね、でも誘わせなきゃダメよ」
「そりゃあ誘って欲しいけどさ。連絡先とか知らないし、会っても挨拶する程度だよ」
「あんた中川さんのメールアドレス知ってんじゃん?会社の。それ使ってアピールするのよ」
「会社のって…誰かにバレない?」
「バレないバレない。私、悟とメールエッチしたことあるもん」
悟とは、麻紀が入社当時付き合っていた営業部の男である。やたら社内でイチャついてると思ったらそんなことをしてたのか…。私は少し呆れて言った。
「メールエッチって…プライベートでやれっつーの」
「だってそのほうが萌えたんだもん」
麻紀はきゃきゃ。と笑って「だから絶対大丈夫」と念を押した。例が悪いけどなんだかすごく大丈夫な気がした。
会社のパソコンでメールなんて不安だけどなんだかドキドキした。明日からやってみよう。
「あっそうそう、今日小池君来てなかった?」
「誰?」
「誰ってあんたが応対してた印刷屋だよ」
「あぁっうん、来てた!麻紀よく覚えてたね、あの子あんまり来ないから私すっかり忘れてたよ」
「あんたもひどい女だね。あんないい子忘れるなんて」
「確かにいい子だった。丁寧だよね」
彼の丁寧な態度と笑顔を思い出した。
「私あの子一押しなのよ。顔も可愛いしさっ」
「麻紀の一押しって久々っ。次来たらしっかりチェックしとくよ」
「まぁとりあえずは中川さんに明日からアピール頑張りな」
麻紀はそういってデザートのアイスを頼んだ。酒をたらふく飲んでもデザートが欠かせないとこが麻紀の可愛いとこだ。
小池君と中川さんはパッと見対照的だ。
ということは匂いも対照的なのかな。と思った。中川さんが甘い匂いだから…そうね、小池君は男らしい匂いのはずだわ。私はすぐにそんなことを妄想した。